“Don’t go away (どこにも行かないで).”
とプロジェクトマネージャーがふざけながらも小声で呟いた。毎週月曜午後の定例会議が終わった後、彼からは御用聞きのように色々と地下鉄駅プロジェクトの現場からの要望を聞いていた。そのようなことを2年間続け、毎日同じプロジェクトのことばかりを考えていれば愛着も沸いてくる。完成まで見届けたい。しかし、それももう無理なのかも知れない。その日の朝、私は勤務先から解雇を通告されていた。
2年前、“地下の建築でも仕事の方法を学べばいいだろう”と腹を括って向き合うと様々な問題点が見えてきた。現場から来る問い合わせ書類が私たち設計チーム内でたらい回しにされていた。それゆえ、すぐに返答がされないどころか、挙句の果てには忘れ去られることが頻繁にあった。同じことを繰り返せば現場から愛想を付かされてしまう。私が窓口になり全て受け止めた。設計チーム内の誰が担当しているかを把握し、振り分ける。誰が見ても状況がわかるようにリスト作成した。これだけで現場と設計チームの連携はスムーズになり現場からは喜ばれた。
人によっては自分の携帯電話番号を現場に知らせるのを嫌ったが私は全てオープンにした。困ったときは私に連絡をくれれば設計チームの担当者に伝える、とした。覚悟を決めたら物事は進む。ほこりまみれの現場で働くエンジニアたちと向き合う方がオフィスのスクリーンに向かって黙々と作業するより私には合っていたのだろう。日本にいたときのようなイジられながらコミュニケーションを取ったりもしていた。
責任を負うに伴い、仕事と実務的な英語も覚えていった。しかし、そのような情報は本社には届いていなかったのだろうか。リーマンショック以降の解雇の足音が現場事務所にも忍び寄っていたが忙しさに気にする余裕もなかった。そんな月曜日の朝、私はメール一本で解雇を言い渡された。
その日の午後、頭に何も入らない状態のまま定例会議を終え、プロジェクトマネージャーの冗談を受け止められないまま現場事務所のキャビンを出ようとした。するとエンジニアの一人が「ちょっと歩こうか」と声を掛けてきた。自分の父親より年上のその人は現場の誰からも愛されていた。
再開発が本格化する前の工事現場の中を歩きながら彼は言った。「君にはプロジェクトが終わるまで残って欲しい。私から君の会社へは話したが、それでも居られなくなったら私たちが直接君を雇う。」結局、クライアントからの指名ということで私はプロジェクトを完成まで見届け、設計チームの最後の一人としてプロジェクトに関わることとなった。